暗箱



いつからこうしているのか、今がいつなのか・・・・・・そんなことはとおの昔に考えるのをやめてしまった。
柏木亨はぼんやりとただ一日一日を生きている。
駅の地下道に住むホームレス。
毎日をただ生きているだけ。
頑張って生きていくことに疲れ果てた彼にとって、毎日はただ流れ過ぎていくだけのものでしかなかった。
あの子を見付けるまでは。

「早く、早く!毎日これなんだから、走って、ほら〜!もう七時三分じゃんっ!六分の電車に乗り遅れちゃうよ!」
七時三分。
いつも決まってこの時間に地下道を通り抜けていく女子高生を柏木はじっとくいいるように見ている。
柏木にとって何の意味ももたない長い一日の時間の中で、この時だけは意味を持つ。
いつも寝坊気味らしい友達と走っていくその女子高生は、友達を引っ張るようにして地下道を走り、階段を駆け上がって電車に飛び乗っていく。
慌てた様子で友達を叱りながら、それでも毎日決して飽きることなく、友達を連れていってやっているようだった。
責任感のとても強そうな目をまっすぐと階段上に向けたまま、しっかりとした足取りで柏木の前を駆けていく。
その姿が柏木の視界から消え失せると同時にまたもや柏木の心を無気力感が襲ってくる。
こんな何もかもがどうでもいい世の中で、なぜあの子だけが特別なのだろうか?
柏木自身にも分からない。
初めてあの子を見た時、視線で、体中のすべての感覚であの子を追っている自分に柏木は驚き、自分が生きていたのだと気づいた。
ホームレスが地べたで転がって寝転んでいようが、死んでいようが、日々の暮らしに忙しく生きている人たちにはなんの関係もないことで、まるで自分自身がそこに存在することを否定されているかのように、綺麗にそこから目をそらされる。だから生きているということを忘れていたのだ。
もちろん腹はすく。けれど腹に入れば味なんてどうだっていい。
味を楽しんで食べていたのなんて、もう思い出せないくらい遥か昔のことだ。
柏木にとって食べることは生きているための糧ではなく、とらなくてはならない義務のようなもので、生き長らえていたいわけではないけれど、死ぬ理由もなかったから、義務を果たしていただけ。
いつか義務を果たすことにも疲れはてたら、そのうち自分は死んでしまうのだろうと思っていた。
でも今は違う。あの子を見ていたい。
いつのまにかあの子は柏木の生きる目的になっていた。

「何してるの?お母さん?」
聞きなれた、待ちわびた涼やかな声が柏木のいる場所の向こう側から響いてくる。
昨日で五回続けてあの子を見た。
だから今日は休日のはずなのにと、柏木は思わず顔をあげてその方向を凝視した。
その視線の先には、あの子と、それからあの子にそっくりの女性がたたずんでいた。
あの子はいつものように柏木を見ない。
けれど、「お母さん」と呼ばれた女性はじっと柏木の方を不思議な眼差しで見ていた。
柏木の中でその眼差しと、遠い記憶とが交差する。
「亨さん?・・・・・・まさかね」
柏木はそのつぶやきに怯えるようにサッと視線を逸らせて俯いた。
女性はそんな柏木の様子に頭を振って、急かされるままに駅の階段へと消えていった。
幸福で何でもできると愚かにも信じていた頃の記憶が柏木の中でフラッシュバックする。
純粋な、まだ失望なんて知らなかった頃の自分が一番大事にしていた人。
夢を追いつづけて現実を見ない柏木に焦れたその人が、一方的に別れを告げて出て行くまでは・・・・・・。
探して、探して、探し疲れて、いつしか夢を見続けることにも疲れ果てる年になってしまって、何もかもを捨てた。
あの別れの前に、もっと話し合って違う道を選択できていれば、あの子は・・・・・・自分の娘だったかもしれないのだ。
柏木はぎゅっと目をつぶった。頭から布を被って殻に閉じこもるように丸くなる。
忘れてしまおう。何もかも。
このまま目を逸らせば、明日からはまた意味のない時間が流れはじめることを自覚しながら、それでも柏木は何もかもを放棄して、眠りへとついた。
明日からはもう待たない、もう見ない。
あの子は柏木にとって傷になってしまった。
 柏木にとっての七時三分は明日からは永遠にやってこない。


★ ふふふ・・・・どう?ブラックでしょ、ioちゃん、奈美ちゃん(笑)
暗いうえに短いしおもしろくないわ〜。これを書いた頃の私って本当に病んでたのね(^−^;)